本殿評価(試論)

米子八幡本殿(試論)の評価

 

八幡の本殿の評価―本殿の大きさ、その坪数からみても、本殿の柱の太さ、高さからみても、県内で、たぶん最大のものではないか?

 

拝殿の大きさでは、大神山神社奥宮の権現つくりの拝殿に比するものはないが、これは、あくまで、拝殿であって、本殿のみを見ると、粗粗としたものである。

八幡も、神仏習合のかたちとしては同じ影響下にあるが、奥の宮はもともと仏寺であった。

拝殿を大きく作っている。

 

ここに、神本体を(仏本体を)敬うのに思想的形態として どちらを重要視していたのかという、根本的宗教思想を、垣間見ることができる。

つまり、仏寺でも、神社でも、それを敬い造るものが、ひとびとの根本的考え、思想が現れているのではないか。

 

本殿をこそ重視するか、

拝殿(人々がより集うところ)を重視しているか。

 

その違いが、本殿の大きさと、拝殿の大きさ の相対比に 表わされていると、

私は、考えるのであるが、どうであろうか。

そうした観点から、ぜひとも県内の神社仏閣の建築様式の部署ごとの相対比率を

再検討して頂きたいものと考えている。

 

1、拝殿の大きさとして1等のもの--大神山奥宮--3000の僧兵の集会所として機能させるため。

2、町の中の神社としての地域性から--組ものの豪華さを競う 町場的華やかさとしては--聖神社

3、農村--地帯の代表として の神観念を表わすものとして、その代表---八幡神社

これは、農耕を生活の根本とする弥生時代以来の人々の、自然観 神観念 を神社の形態に

表現したもので、我が国にとって最も重要な神社形態である。

 

つまり、晴れたり、曇ったり、日照り干ばつと云う自然こそ、もっとも神の力によるものと、恐れ敬った農耕民の深層心理が神社という形態の中にも、本殿の方を 大きく造るという~

建築思想の根本を表わしているものなのである。

 

そのようにかんがえると、この形式の神社を、農耕社会の代表として重要文化財に指定するという、視点がいままでは欠けていたと思われる。

 

大伽藍、講堂をもつ、寺院---人々を一つの哲学道徳によって、教化し導こうとする そうした思想背景をもつものの代表として、有名寺社が重文指定されることは、一つのジャンルの代表として評価するのはよいのだが、

その他の視点に基づく、文化財行政が必要である。

 

この点に気づいている人が全くと言っていいほど、今までいなかった。

~同じ、大社殿でも 出雲大社は、農耕文化の代表であるが、どちらかと云うと、国家的様態を追求したものといえる。

上からの、視点が 垣間見える。

人々を支配するのに、国つくりとしての上からの視点にもとづき、スサノオを抑えて、大国主を前面に出した社殿造りの形態になっている。

~出雲大社は、そうした思想が垣間見える国家神的文化財といえる。

 

ここも 本来は神楽に見られるように、ヤマタノオロチのスサノオを中心とするものでなければならなかったのだが、いつしか大国主の国譲りの方が前面に出るようになってしまった。

 

それと異なって、地方におけるそれぞれの八幡神社は、応神天皇という国家神を表面に戴きながら、その実それを霊廟というかたちで葬り納め、農耕民の心を、大地という土地を中心に、

土地を養うものこそ、自分たちの神であるという、地母神信仰に基づいて、つまり母なる大地という思いが中心となるものであり、それを大きすぎる本殿という形に造形したものが、

八幡建築なのである。

 

その代表が、この日野川の三角洲の真ん中に立てられた米子八幡神社なのである。

 

川沿いの平野は、まさにヤマタノオロチの8本の尾の如く、時として荒れに荒れ、大洪水の後に豊かな沃野を造ってくれたのである。

 

オロチの8本の尾が、8つの方向に、四方八方に、8つの畑、末広がりに伸びてゆく耕地・田畑を暗示するように、8つのハタが 八幡に結びつき習合して、八幡信仰が全国に広がった。

 

その代表例を、ここに読み取ることができる。---その社殿なのだ。

本殿の方を より大きく造るという地母信仰にもとづく農耕民の神観念を体現させたものとして

貴重な、もっとも分かりやすい代表である。

 

その何よりの証拠に、

わけのわからぬ1間ほどの長さの、ショロ縄で何重にも網の目のように巻かれた古い漆塗りの

凾がある。

不思議な箱であるが、

ちょうど、ミイラの一部を入れた凾に見える。

あるいは、神楽のお話にある羅生門の鬼を、渡邊の綱が切り取った 鬼の手首片腕を入れた凾のように見える。

 

本殿に奥深く置かれていたものであるが、その前には、これも漆塗りの三尺ほどの三角台形の形をした剣入れの箱に守られるようにして、おさめられていた。

さて、そのミイラを納めたような凾の中身であるが、

中には、掛け軸が二本入っている。

一本は、少し小ぶりな白の軸もので、ヤマタノオロチの絵物語を描いたものである。

一見すると、大蛇は一頭しか居ないように見える。

ところが、この絵には、仕掛けが隠されていて、よく見ると八頭のオロチが見えてくるようになっている。

 

その他にも、アシナヅチ、テナヅチの翁媼と稲田姫のお話、酒造りのマツノヲ 松ちゃんのお話、酒の大樽、もちろんスサノオの命、天叢雲剣アメノムラクモノツルギ、などなど一枚の絵の中に、物語が読めるように描き込まれている。---稲田姫=イネ・耕作民の大地への思い・願い・祈り、をしめし。

天のむらくも—とは、洪水を呼び込む黒雲、龍の隠れ住むところで、空、宇宙、で農耕民にとって大地と並んで最も大切な水をつかさどる神霊の宿るところ---それがオロチに象徴されるものである。

これらを一枚の絵の中に描くことによって、神社の建築様式の構造をも規定しているものであるというか、その思想を表わしているものである。

八幡神とスサノオは一見関係がなさそうであるが、ここに見られるように、地方にあっては、荒神=スサノオと八幡神が習合することによって、農耕民の心情をその社殿の形、本殿を大きくするという建築形態の中に示そうとしたものであるといえる。

スサブとは吹き荒れる風を表わし、スサノオ—荒神となり、その風は、神風となって、八幡信仰と習合する根拠となった。

 

拝殿にある、蒙古襲来の大絵馬も、そうであるが、ちょうどピカソのキュウービズムのように、正面から見える顔だけでなく、一つの画面に横から見た鼻や目、前からみたもの、斜めから見たもの、の姿を描きこんでいるように、二つ以上の物語を一つの画面に書き込んでいる。

つまり、神功皇后の渡韓の神話を右端に表わし、中央には武内宿禰に潮満つ玉、潮干る玉を持たせ、神風を呼び込み、それによって高句麗と中国の宋軍と蒙古軍の来襲を左端に描き、八幡神がスサブ風に乗って、撃退するという

物語を後世に伝える表現にしている。--これは私が五〇年架かかり、やっと読み解いた結論である。

-----------ここまでは、米子八幡神社試論{1}であるが、----

 

試論{2}では八幡神は金廻神と習合していた。(発見された女神像の御神名・市杵嶋姫命—水と財運を司る神—江戸期には金廻神=神仏習合して、弁財天となり、社殿内相殿にあったものが独立して八幡神社末社金廻神社ご神体として祀られた。

 

このアイドノの神というのは、大社殿の御本社の中に鎮まられていて絶対に動かれない神に対して、

場合によっては、大社殿の外にお出ましになって、別社殿を建て鎮まられる、いわゆる「末社」の神と祀られる場合がある。

祈雨の時に〔雨乞いが必要になった時代〕貴船社を建て、末社として祀る。

災害を鎮めるために素戔嗚尊が荒神として出かけられ、末社となり

火事が多いときに「火しずめの宮」として日御碕社を建て、末社として祀る。

或いは時代の流行で秋葉社であったり、愛宕社であったりもする。

水を鎮め、通りを良くするために金廻という土地に、神(市杵嶋姫)が激流の村辺に出られ金廻神と云う末社になることもある。

(五行思想では「金」は「水」の親と言い、「金生水、金相水」という言葉がある)

その末社の神は、用が済めば元の御本社に帰られ、アイドノの神として鎮座される場合が多い。

待遇が良ければ、そのままその所に留まられて、摂社の神として村に鎮座される場合もある。

虫食いのために朽ちて行くものが多い板棟札でも、江戸時代以来だけで、約70体の棟札が現存し残っているのも、このような事情によることを物語っている。

ここに見るように、八幡神社はお一人の神というよりも多数の神の集合体としてお祀りされていた。

出雲大社は、大国主命お一人が、多数の御神名を持ってお祀りされている。