秀吉と能面
室町期に石川龍右衛門という女面の名手がいた。彼が打った小面三面を、能に傾倒していた豊臣秀吉が手に入れた。それは、音に高い龍右衛門打(うち)の雪・月・花であった。
のちに、秀吉は、雪の小面を金春岌蓮に与え、月を徳川家康に与えた。また花を金剛宗家に贈った。
このように、能面に傾倒する豊臣秀吉奉納の能面が、米子八幡神社に所蔵されているということから、豊臣秀吉がみずから、当社宮司として任命した内藤宦兵衛尉藤原綱宗に対する信頼と期待、伯耆之国総社としての米子八幡神社への祈願の思いが大きかったことがうかがえる。内藤宦兵衛(藤原綱宗)が当社主職として、この地におもむいた年は、北条氏小田原城が陥落し、九州の隼人征服がなる全国統一への画期となった歴史的な年である。
出雲大社と石見銀山が存す出雲之國の隣に位置する霊山・大山と日野川をいただく伯耆之國の精神的な中核総社としての当社の位置がうかがえる。
小田原城主北条氏が降伏し、豊臣秀吉が天下統一を果たした天正18年(1590)、米子城主吉川広家より秀吉へ願い出(天正17年)があった当社主職拝命の件が、この年実現したと古文書等にある。
当社内藤宮司家の祖となる内藤官兵衛尉藤原綱宗は、京都足利家将軍足利義昭公、織田信長公、豊臣秀吉公に仕え、その後、命により当社主職に罷り下ったとされている。(社伝)